作者
参議篁
802~852年
本名は小野篁
平安時代の学者で、歌人
隠岐の島へ流されるが、数年後に都に戻り、出世した
意味
私は大海原の多くの島を目指して、船を漕ぎだした。漁師のつり舟よ、都にいる親しい人たちに、そう伝えておくれ。
解説
流刑地の隠岐の島へ出発するときに、親しい人に向けて作った歌。
作者の参議篁は、検討留学生の一人に任命され、二度、中国の唐に向かいました。しかし、二度とも船が壊れて日本に戻りました。三度目に唐へ渡ることを命じられて時、篁は行くのを拒否しました。故障した船に乗らされるのがいやだったからです。
このことで、篁は嵯峨上皇の怒りにふれ、現在の島根県にある隠岐の島に流刑にされてしまいます。流刑とは、罪を犯したものを、都から離れた場所に遠ざけることです。
処罰を受けて都から離れ、見知らぬ土地に向かうのですから、篁はさぞ心細かったことでしょう。しかし、この歌ではさみしさや辛さを強調していません。まるでこれから冒険に向かうように詠んでいるところに、篁の男心が表れているようです。
「わたの原」とは、大海原のこと。「八十」は、数の多いことを指す表現で、「八十島」はたくさんの島々という意味です。
ゴロ合わせ
わたのはらでやをうつとつりぶねにあたる
原文
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